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稲沢下津総鎮守住吉神社由縁

  • sumiyoshijinjainaz
  • 3月21日
  • 読了時間: 3分

更新日:4月28日


西暦717年絵図
西暦717年絵図
愛知県埋蔵文化財センター研究所、奈良文化財研究所資料①
愛知県埋蔵文化財センター研究所、奈良文化財研究所資料①
愛知県埋蔵文化財センター研究所、奈良文化財研究所資料②
愛知県埋蔵文化財センター研究所、奈良文化財研究所資料②

愛知県埋蔵文化財センター研究所、奈良文化財研究所資料③

河合下津研究学者提供絵図、住吉神社奉仕神職長尾



#住吉神社下津総鎮守#鎌倉街道稲沢#尾張国稲沢下津総鎮守#稲沢神社由縁#由縁下津#稲沢住吉神社

〜神話より稲沢下津総鎮守住吉神社〜

日本神道の神々様は、先祖霊と神聖な自然霊が融合して山の山頂或いは海辺の岬に降臨する。故に、島国でもある日本は、古来より海への信仰心に篤く「住吉大神」の崇拝の由縁であろうと大綱推察する。

全国に約600社(現在法人名とする住吉は600社で約2300社ともされこの限りでない)祀られる住吉神社の総本社は、住吉大社である。別称:摂津の国一之宮とし、摂津地域で一番格式が高い神社で、創建は神功皇后摂政11年(西暦211)凡そ1810年前とされる。此処で「住吉三神」と「住吉大神」について詳述する。

神功皇后は、三韓征伐(新羅遠征)の際に、伊弉諾尊の禊により海中から出現したとされる「底筒男命」、「中筒男命」、「表筒男命」の「住吉三神」の御加護により船団が導かれたとされ、神功皇后が帰還後、この三神を祀られたのが起源。後に、「住吉三神」に加え神功皇后も併せ祀られ、四神を総称し「住吉大神」とする。伊弉諾尊が黄泉の国(死者の国)より禊で復活と再生の如く生まれた「住吉三神」航海安全、とりわけ神功皇后のゆかりの「弓の神」は、武運長久等多くの御神徳がある。神功皇后自ら弓鉾をとり、大いに国威を発揚されたと伝承される。

扨て、稲沢下津総鎮守住吉神社の由縁に橋渡しとする。

諸説様々あるが、上記絵図西暦717年によると、中島郡の島に一宮、下津と地名が存在し、時代背景を紐解くと、やはり住吉信仰の存在意義を創造、推察する。

又、余談であるが、愛知県埋蔵文化財センター研究所、奈良文化財研究所資料①➁の抜粋中世下津住吉神社より、遺跡発掘調査等から考察した学術的観点に基づき、住吉神社が鎮座され、下津は港湾都市、鎌倉街道としても栄えて行く。1779年(安永8年)社人牧野権太夫の屋敷が存在し、宮司として下津における隔絶した地位を持つ神社と記述される。

〜日本の大海原を拝みながら近代へ〜

古来より大海原に囲まれ、島国でもある日本国民は、社稷を想う心に重んじ、現代が未来へ動くのではなく、過去が未来へ向かうことを大切に、唯心思考とし、神々を崇めてきた。陸地に存在する神社、仏閣、城や砦、将又国民の障泥等足もとを固めつつ護持と併せ、海洋勢力(シー・パワー)を神へ託し、島国を護り信仰し、海洋領土並び海路(シー・ライン)を確保してきた。この信仰心こそが国の隆昌ひいては世界の共存共栄により、更には豊かな日本の足掛かりとなり、海神を崇めてきた此の地方の氏神神社の歴史からも鑑みれる。珠玉の言伝えでもある。決して武力行使を擁護するつもりで無いが、北方四島や、竹島、尖閣諸島問題等、国を憂う心は必須であり、此処より忘れつつある精神、国体維持と経綸を大切に拝まなければならないと思う所である。稲沢下津総鎮守住吉神社の由縁とする。

神職長尾健仁

末尾となるが、

社人牧野権太夫

大縣神社名誉宮司

牧野武彦氏が学術的な見識により

尾張の国の発揚を取り纏めた

「尾張のあけぼの」と題した論文を此処に紹介する。

尾張の国一之宮真清田神社 

尾張の国稲沢下津総鎮守住吉神社

神職長尾健仁百拝

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